scholarの志 ロボット プログラミング 科学教育 

公教育と明確に違った体験型学習(Active learning)を実現するのが私の願いです。未来の創り手となる子ども達に何を準備しなくてはならないのか。児童期の多様性を尊重し、Scientific literacy(科学の論理展開力)の育成を目指します。岡山理科学館に協賛し、地域から世界に飛躍する人材を育てます。

穏やかな人になる前に、「怒るべき」こととは

本日マンションのエレベータを降りると、スマホを眺める50歳くらいの女性が立っていた。挨拶もなく、ど真ん中に立っている。エレベータから出るのが一苦労だった。「この人日本人なのかな?」と思いつつマンションを出た。
思えば、カルチャーセンター本部教室でも多くの年配の女性たちが、エレベーターの入り口を塞いでいる。降りるに降りれない。日本橋三越や高島屋でもこんなことはなかった。待ち受けの人は除けたものだ。日本はいつからこうなったのか?岡山が問題なのか?
最近、歳とともに「怒るべき」ことを忘れかけている。戦後連合国が置き土産にした「地方自治」も、美しい理念と概念は移植されたものの、70年の歳月とともに形骸化が進み、議会は各地で経費処理のねつ造やカラ出張の惨状を呈している。議員立法は皆無に近い。東京都議会までもが機能停止に陥っている。戦後民主主義は、概念が朽ち、完全に空洞化したかのようだ。
岡山大学医学部の博士論文データ改竄問題で、岡山地裁は告発した両教授の懲戒解雇に対し、大学側に給与支払いを命じた。岡山大学医学部は郷里の誇りであり、科学を志す若者の憧れる学び舎である。是非とも大学人の自力で問題を解明し、裁判中心の展開を改めてほしい。当塾の標榜するScientific literacy(科学の教養)に著しく離反する行為である。
過去に経験のない少子高齢化や極東安全保障の問題を抱える日本国は、待ったなしの位置にある。次代を担う子供たちに、なにをどのように伝えるべきなのか。「怒ることも」必要な時がある。と伝えるべきなのか?

おぼえる人になる前に「学ぶべきこと」とは?

 初等期の習い事で、専門家が共通して指摘することは順番が大切だと。単元の進行のみ重視すると、こどもの目線から外れてしまい、大人の自己満足となる。
 算数(数量や図形)では、視覚での理解が重要との指摘がある。数量が面や立体で理解できると、「覚える人」になる前に「考える人」になれるのがその根拠。この蓄積が進むと補数や分数も理解しやすくなる。さらには、マンデルブロー集合などの高等数学理論までも視覚によるアプローチが重要となるわけだ。(私は図形と数量は別物のように教わった。単元授業の悲しさだ。涙)
 次に、国語。語彙の習得(視覚・聴覚による)とその応用が優先されるべきとの指摘がある。語彙と情景のリンク付けだ。十分な語彙とその応用を獲得できないのに、作文したり文法を覚えると苦痛になる。外国語教育でも同じ指摘がある。日本の教科書は、逆の道をたどってきた。(幸い私は、本を読みふけって、朗読の代表だった。)
 最後に、絵画だ。五感で感じたものを習作デッサンして頭で整理するプロセスが大切との指摘がある。作文も同様だ。マップに落として客観視するプロセスが大事。そこで初めて、五感で感じたものが客体とされ、初めて立体的に表現として変換される。(小学2年生から水彩画を習った、それ以前には新聞広告の裏に落書きをしていた)
 自身の過去を振り返っても、嫌いになった科目は、入り口で問答無用と押し付けられたものばかり。口にするプロセスを間違えていたと思う。食わず嫌いだ。この歳になって、「量子物理」や「光と電磁波」がこんなに面白いものかと驚く。相変わらず化学式にはアレルギーがあるが、マンデルブロー集合をプログラミングで表現するに至ってはドキドキするのである。初等期に、出来るだけ素直に、この驚きを受け止めて欲しい。そして、将来に渡る永続的なScholarとなってほしい。#ロボット教室プログラミング教室