ロボット プログラミング 科学教育 岡山市

21世紀に生きる子供たちに伝えておくべきことは

公教育と明確に違った体験型学習(Active learning)を実現するのが私の願いです。未来の創り手となる子ども達に何を準備しなくてはならないのか。児童期の多様性を尊重し、Scientific literacy(科学の論理展開力)の育成を目指します。

全国校長会は自主的に解散を

全国高等学校長協会が文科省に英語民間試験の活用延期と制度見直しを要請した。一発試験の弊害を解決すべく提案された到達度検査(年複数回実施)も彼らは拒否した。英語検定は「経済格差」と「地域格差」が理由とか。到達度検査は「年間スケジュールに空きがない」とのこと。全国の高等学校の校長先生は、実に「現状」が好きらしい。


世界の中で、日本の英語教育は労多くして成果が出ない象徴とされている。膨大な経費と時間に対して効果が比例していない。金と時間の膨大な無駄使いだ。その象徴である入試制度を変えようとしているのだ。これに対して、4技能計測が「経済格差」と「地域格差」の拡大を招くから反対とは?理解に苦しむ。


さらに、高等学校「普通科」で、向学心と自己肯定感の無さが世界屈指との指摘を受け、その対策を問えば、「大学入試が悪い」と責任転嫁する。一発試験の弊害を解決するため、AOや面接試験の精度を上げるべく到達度調査を実施するというと「行事で忙しい」。日本の高等学校の校長の見識はどこにあるのか?その人間を任命する教育委員会の良識とは。さすがの文科省もびっくりのガラパゴス社会だ。


試験の最高峰と言われた司法試験改革がとん挫した。旧来と同じ教育に胡坐をかく法科大学院と試験予備校群。その定員だけ増えた。そこには供給過多に見合うだけの市場開拓の努力はない。潜在化して見えない司法ニーズを省みず、「500人定員が2000人になったからバカが増えた」的なOB論評だらけだ。国際間調停の人材難が続く日本で、シンガポールなどの人材育成の努力は見られない。試験技術の検討のみが先行して、国際的な「志ある法曹人」の育成に汗をかかないままで終わった。マスコミ曰く「人気が落ち」「志願者が減った」と。当たり前だ。


日本の教育と試験に携わる人々は、日本が「奇形」していることに気づくべきだ。大学も法務省も、目指す人材像を具体的に開示し、自己アピールする発表会形式で選考したらどうか。足きりだけは到達度試験で及第点を要求すれば十分だ。「何を学んだか」「なぜ学ぶのか」こそ問うべきだ。今よりは世界標準に近づくはずだ。まずは、試験のためだけにある既得権益を奪い取ることだ。

高校生に向けた人工知能講座 今、数学が熱い!


東京大学のオープンキャンパスで、高校生に向けて機械学習や人工知能に関連した数学の講義が開催された。これが、60歳を超えた私の頭を再活性するほど面白い。


1957年ニューラルネットワークによる機械学習は発表された。私と同い年だ。これは当時の発想としては画期的だったが、四則演算や記憶能力の範疇を越えなかった。そのため発達は遅々として進まなかった。低効率による停滞だ。今の日本経済みたいだ。
1980年代と2000年前後に、大きなイノベーションがあって。2012年から今日の深層学習による飛躍的なAI時代が幕を開けたのだ。

機械にとって学びやすいのは四則演算、人間にとって学びやすいのは視覚認識。このパラドクスを解いたのが、近年の飛躍的進化の理由だ。

大量の画像データを細分化し「ピクセル」単位に整列し、その個々の濃淡値を数字に変換する。そこで登場するのが多次元のベクトル列だ。ここで多次元のグループ分けが成立し、コンピューターの認識データとなる。このベクトルの内積や線形代数などがなぜ機械学習に必要なのかの説明が明快で楽しかった。


さらにDeep Learningに話が進み、人間の脳と同じ5層階のグループ化システムを理解してパターン学習の原理をつかんだ後、統計学の登場となる。これは自動運転や自動翻訳の中核技術にも通じる。画像や言語もベクトル抽出により数字化される。このデータを処理する時、合理的に整理する取捨選択の基準が確率論となる。 参加者全員でコインの裏表を実験して、確率論の公式を体験した。正規分布の公式や大数の法則式も納得ができ、違和感は無かった。「中心極限定理の公式」にもついていけた。なんとかだが。


講義の最後、「人工知能による社会が来る。だから、この技術を利用し理解することによって、人間がいかに幸せに生きれるかを考える必要がある」と語る数理工学の若き研究者に、淡い憧れを感じる62歳の私がいた。もし、中高生の時、こんな講義に出会えたら、自分の人生は変わっていたと思う。「なぜ学ぶのか」

我塾のプログラミングに通う子供たちにもこの感激をシェアしたい。かっこいいではないか。