ロボット プログラミング 科学教育 岡山市

21世紀に生きる子供たちに伝えておくべきことは

公教育と明確に違った体験型学習(Active learning)を実現するのが私の願いです。未来の創り手となる子ども達に何を準備しなくてはならないのか。児童期の多様性を尊重し、Scientific literacy(科学の論理展開力)の育成を目指します。

英才に不寛容な教育界  標準化の鬼

英才とは必ずしも試験に強い意味ではない。と同時に、残念ながら生まれ持って人間の資質は千差万別だ。標準的な人間など存在しない。


「だから鋳型に入れて、最低レベルを上げるのだ」と初等・中等教育界は励んだ。70年代までは正解だったと思う。戦後の高度経済成長期、安価で良質で、勤勉で、標準化された労働力は国力の源だった。80年代その成果に酔いしれた日本。
そのあとのバブル崩壊。
90年代から続く、デフレと失われた日本。世界の檜舞台から後退し続けている。
昨今の東芝や神戸製鋼所などは、その象徴と言える。
90年代まで基礎科学研究でも英米を猛追していた日本だが、今や見る影もない。中国やイスラエルなどの後塵を拝し、人工知能やリチュウムイオン電池など先鞭をつけた領域を中国やアメリカに支配されている。相手方は国家ぐるみの巻き返しだ。


「反省だけなら猿でもできる」「名前だけ変えても進化はしない」この世の中。
ならどうする。


子どもの多様性へ寛容な教育行政を考える必要がある。
世界の教育界は、こどもの多様性に早期から対応する方向で進化している。不向きなものを強要もしない代わりに、好きなことにはとことん集中できる環境を整える。


同時に、一様に序列体系化させないことだ。
昔の日比谷・西・戸山などの名門都立高校や東京教育大付属の卒業生は、自分の興味関心にどん欲であり、本をよく読んでいた。教科書のことだけ良く知っているのは恥ずかしいことだという校風でもあったのだろうか。


私のような田舎の県立普通科とは、全く違った世界観があった。それを序列でとらえるのではなく、別世界として交われば済む話だといいたい。英才とは違いに寛容なことだ。皆が大学進学することも考え直す時に来ている。そんなに素晴らしい大学は、日本に多くないからだ。

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