英語を学ぶ目的が変わった
今から半世紀ほど前、英語を学び始めた私の周りの環境は、英語0だった。高等学校でもその環境は変わらず、入試対策=英語の勉強であった。読解・英作文までだった。
社会人になっても。日本のエンジニアや大学教員が話す「超日本語感覚の英語」=読解力のみで話す「一本調子の英文」がインテリ英語だと勝手に信じていた。当時、流暢な発音は、「おつむが軽い」という錯覚すらあった。歪んでいた。
その後実務で鍛えられたものの、一生人に聞かせるものではなかった。
ニューヨークの国連総会で、スウェーデンの16歳の少女が演説する。温暖化への理解を訴えて多くの共感を得ている。同じく小泉進次郎大臣が、国連での演説で話題を提供している。発信する英語だ。
IAEA総会での韓国の福島汚染水に対する攻撃は熾烈を極めた。流暢な英語で韓国外交官は攻め立てる。一方、我が国は「日本語」で「下を向いた原稿朗読」だった。科学的には日本が「正論」で、韓国が「いいがかり」なのだが、そうは見えない。
クラウドAIと5Gにより同時翻訳は破格に進化する。しかし、人間が人間である限り、また、共感を得るべき存在である限り、英語を学ばなくてはならないのだと思う。そのための学習手法と到達度調査がどのようなものであるべきかを考えずに、試験技術のみ語る「日本の英語試験専門家」はそろそろ退席願いたいものである。